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心に残った言葉たち

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■ 「力は出るもの出せるもの」

普段は弱そうな顔をしている女でも、火事なんぞの時には、たいへんな力が出るもので、重いたんすや大きな長持ち(衣服などを入れる木製の箱)を、遠くまで運び出したりします。人のからだの中には、ひじょうに大きな力かくれています。

しかし、その力を出さずにいると、だんだん弱くなってしまいますが、出せば出すほど強くなるものです。相撲をとるのも、木のぼりをするのも、お庭をはくのも、お使いにゆくのも、雑巾がけをするのも、、みな力をだすのです。精出して毎日力を出していれば、とうとうどんなに大きい力を持った人になるかしれません。

人のからだの中にも、大きな力が隠れていますが、人の心の中にはもっと不思議な、もっと大きな力がたくさん隠れています。

汽車や汽船はスチブンソンやフルトンの頭から出ました。電話はベルという人の頭から、無線電信はマルコニーという人の頭から出てきました。

不思議なことではありませんか。皆さんも頭の力を養うと、どんな面白いことがその中から出てくるかしれません。

羽仁もと子著作集「子供読本」から抜粋、引用

■ 「『やってみよう』と『どうせ駄目だ』」

私たちの精神生活の二つの動力の一つは『やってみよう』と自ら励ます力で、一つは『駄目だ』と抑える力です。

私たちの中にある『やってみよう』という動力は、実に私たちの創造(つくら)れたままの本体です。ひたすらにそれに従って生きる時に、あふるる恩寵の中に不思議な心の歓びを経験します。

しかし駄目だ駄目だとささやくものも、また確かに私どもの内部に住んでいるのをどうしましょう。そうしてそれが私たちの創造られた自然でないとすれば、何でしょうか。鉛のように重いのは人の世ではないでしょうか。

今私たちの中に巣くっている『どうせ駄目だ』という動力は、人の肺臓に住んで健全な呼吸をする力を蝕んでいく黴菌と同じことです。罪と称するのが適当だと思います。

一番の罪の本源は、心を開いて神の愛とその力を呼吸することをしないことからくるのです。私たちの心の内部が本当に神の光に照らされる時に、罪が育ってゆくことができません。先に育っている罪も死ななければなりません。

それ故にどうかして私たちは、絶えず私たちの霊の生に入用なものが我らの内に入り来ることの出来るようにしなくてはなりません。

羽仁もと子著作集「思想しつつ生活しつつ祈りつつ 中」から抜粋、引用

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